桃色の雨・前編





 桜舞うこの季節。
 暖かな春の日差しと、新しい一年がまた始まる季節。
 桜は時間と共にその花びらを散らせて、いつかは無くなってしまう。
 それと同じように何かを散らせる二人もいた。

 春の日差しが差し込む部屋に、一人の男がベッドの上で、
窓に映る美しき桜を眺めることなく、ただ天井だけをずっと見つめ、
太陽に照らされたその顔は春の色とは違いすぎるくらい白かった。

 その男はアルベル・ノックスだった人物であった。

 そして、その部屋に一人の女性が静かにドアを開け入ってきた。

「ただいま。今日はおとなしくしていましたか?」

「・・・・・・・・・・・・」

 ベッドの上の人物は、ドアの開閉する音にも、よく見知った女性の
声にも何の反応も示さなかった。
 ただ焦点を天井に向けているだけ。
ゆっくりとアルベルは言葉を紡ぐ。

「・・・・・・く・・・れ・・・・あ・・・」

 口をほとんど動かさず、舌だけを動かして、小さすぎるほどの声で
その名を呼ぶ。
 彼は自分が誰なのかもわからなくなってしまってからでも、大切な
女性のことだけは記憶の奥底にだけ、僅かに残っているのだろう。

「はい。どうかされましたか?」

 クレアはアルベルに問う。

「・・・・・・・・・・・」

 しかし、アルベルは天井を見つめたまま返事をすることは無かった。
クレアは何かに気づいて服越しに彼の背中に手をあてる。

「汗、たくさんかいてますね。」

 彼が着ている薄い服は彼の汗でべっとりとしていた。
彼はそのことをはっきり認識できず、また認識できていたとしても自分
でその汗を拭くこともできず、その事を満足に誰かに伝えることは出来
ない。
 クレアは水で絞った布巾を持ってきて、彼の着ている服をそっと脱が
し、その汗を拭う。

 アルベルには精神が崩壊したことだけでなく、もう一つの症状が体に
表れていた。
 クレアが汗を拭うその手の下のアルベルの背中には紫色の斑点が
無数に現れていた。

 それを意味するものはやがて来る「死」だった。

 さらにそれは、アルベルだけでなく、クレアの同じ部分にも現れていた。

 それは、彼女がアルベルの一番側に居たから伝染したのか、
もしくは、・・・彼女自身それを望んでいたのかもしれない。

 いつから二人の運命は狂いだしたのだろう・・・


★ ☆ ☆ ☆ ★

 それは、三ヶ月前のまだ雪が降る季節だった。
アルベルが遠い戦いから帰ってきて一年弱が経とうとしていたある日、
アルベルとクレアが永遠の約束を交わした。
ずっとこの幸せが続けばいいと二人は思っていた・・・

 それから数日後、彼に異変が起き始めていた。
夕食の準備を終えたクレアは別の部屋にいるアルベルを呼びに行く。
そして、「夕食の準備が出来ました。」と声をかけても返事は無い。
何度呼びかけてもやはり返事は無いので、仕方なく肩を叩いて呼びか
けると、やっと返事をしたのだった。
 それが、一番最初に起きた異変だったと思う。

 その夜もまた二人の時間を過ごしているときに、何故か突然アルベル
は声を張り上げ泣き出してしまった。
「どうして泣くのですか?」とクレアが聞いても、「俺にもわからねえんだよ」
という返事しか返っては来なかった。

 それから彼は何処に焦点を合わせているのか分からないままボーっとし
たり、突然泣き出したり、暴れだしたりしたのだった。
 そのサイクルが日が経つにつれ彼が「アルベル」でいられる時間が日に
日に短くなり、最終的には殆どの自我を手放しボーっとしている時間が一日
のほぼ全部を占めるようになった。


 何故彼がこのような状態になったのかは、なんとなく分かっていた。
それはあの戦いのとき、彼は更に大きな力を手に入れようと手にした
魔剣 クリムゾン・ヘイトにあったのだと思う。
 それは、持ち主を自ら選ぶという。選ばれし物が手にすれば強大な力
を手にする事が出来るが、選ばれなければ災いをもたらすという。
 彼は、完全には選ばれなかったのだろう・・・

 そして、その災いは彼の精神を奪い、崩壊させていった。
さらには、彼の精神だけでなく、その体、その命まで奪おうとしている。


 そして、現在に至る。




















★ ☆ ☆ ☆ ★


 クレアが汗を拭う手を止める。

「お腹、空きませんでした?」

「・・・・・・・・あー、・・・あ・・・・」 

 クレアがアルベルにそう言うと、彼は何の意味も無い声を発声させる。
それは、彼なりに一生懸命意思を伝えようと出した声なのかもしれない。

「わかりました。それじゃ、すぐに用意しますね。」

 その意思が伝わったのか、クレアは厨房へと向かう。
それから暫くすると、彼女はこの部屋へと戻ってきた。
そして、アルベルの上半身を起こすと壁へもたれさせる。

「ちゃんと食べないと、元気になりませんよ。」

 クレアは粥をスプーンですくって、アルベルの口へと運ぶ。
アルベルがその粥を口から戻さないようにとクレアが左手でその口を押さ
える。その無理矢理食べさせるような動作を、粥を口に入れるたび繰り返
した。

「あら、今日はたくさん食べれましたね。」

 いつのまにか粥が盛られていた食器は空になっていた。
普段はその半分くらいしか食べられず、それ以上はまったく飲み込もうと
しないのだった。

「今日は、林檎もあるけど、それも食べちゃいましょうか。」

 クレアは林檎を持ってきて皮を剥く。皮を全て剥き終えると、それを八等
分にして一つ、自らの口へと入れる。
 林檎の硬さから、アルベルにはそれを噛み砕くことが出来ないので、彼女
が自らそれを柔らかくして、アルベルに摂取させるというのだ。
 クレアは林檎を数回噛んで、それをそのままアルベルの口へと移す。
既にアルベルは、彼女無しでは食事すら満足に出来なくなっていた。

「もう、食べないのですか?」

 アルベルは林檎一個の半分程食べ終えると、それ以上は食べなくなり
クレアは彼の口から戻された林檎を拭き取る。

「なんだか、これじゃ子供扱いね・・・」

 苦笑しながらクレアは言う。
それから間を置きもう一つ、

「・・・あなたとの子供・・・産みたかったな・・・」

 そう小さく、寂しく呟いた。
その後、クレアは換気をしようと窓を開ける。
そこには桜の花びらが宙を舞い、この部屋へと何枚か舞い降りた。
外には桃色の雨が降っていた。








後編へつづく



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